昭和45年8月6日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃというても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
しっかり信心の帯が出来ておるときには、ね。どういう事に出会いましても、確かに腹も立たないし、情けないとも思わないが、ですね、こら、もう、私の体験から。情けないと思うときには、もう、絶対、いー、信心の帯が緩んでおる時、もう、ずんだれてしもうておる時です。ね。もう、腹が立つ時などは、もう、いよいよそうです。ですから、それを反対に、腹の立つと言うことは、もう、慢心しておる時とすら思いますね。で、自分が良かつのごと思うとるという、その、それが、あー、腹の立つ元になるのです。信心がしっかり出来ておるとき、情けないと思う、腹が立つこともないもんです。ね。少し例えば、よし触ったにしてもです。もう、ほんとに、それによって、いよいよ自分というものが、こう、深められ。自分というものを、本当に、確かめる、良いチャンスにこそなれ、腹の立つことではありません。ここんところを、一つね、あの、いわゆる、しっかり一つ頂かせて貰い、分からせて貰っておくとですね。あー、おや、これは、信心の帯が緩んでおるぞと、直ぐ反省することが出来ます。ね。ですから問題は、やはりその、信心が、信心によって、そのー、事の道理と言うかね。んー、と言った様なものがやっぱり、んー、一応、習得されておらなければならんね。やっぱり、理屈の上でも、勉強しておかなければいけません。ほんとにですね。こちらがね、ほんとに信心の帯が、しっかり出来ておる時ですね。ねえ、例えば、あの、腹の立つような、あー、事に直面してもですね。あー、腹が立たないどころかね、有難うなってくるです。ね。そこにはね、その、相手までが助かってくる働きになってくるですね。これはもう、信心の体験を、お互いが積まなきゃならないことです。いわゆる、自他共に、なら、私自身が本当に助かることによってですね。しっかり、信心の帯が出けて、腹の立つようなことなら、ほんと先生、貴方馬鹿じゃなかですか。こげなことに、腹を立てるなと言われる様なことがあってもです。腹の立つ段じゃない、かえって有難い。というような時ならですね。必ず、相手も助かるという。なら、馬鹿なら馬鹿と言うておる。乞食なら乞食と言うておる、その人も助かる。信心はね、私は、功徳というのはそんなもの。有難いという功徳と。そう、そこのところの、一つの極めてというかね。というものを、段々、身に付けてまいりますところから、おかげが頂かれる。どうでしょうね、私たちの、んー、生活の中から、腹立ちといったようなものがなくなった時、どんなに幸せなことか分からん。もう、修行と思うて、腹は立てんというのもね、有難い。だから、そういう稽古もしっかりしなければならんけれどもです。その、腹を立てんで済む、まあ、それこそ、久留米の石井さんじゃないですけども、腹立てちゃ馬鹿らしかと、こういう。ね。そういう例えば、結論が出てきとるためには、やっぱ、様々に勉強もし、様々に、体験を通してです。いよいよ、なるほど、腹を立てては馬鹿らしいという事になるのです。これはもう、絶対にそうです。例えばね、おかげ、信心のまあ、いわゆる、霊的なおかげがこうやって出来上がっていきよりますよね、段々。自分たちが願っておる願いが成就してしまうと、形に表れてきますから、直ぐ分かりますけれども、その、形のおかげが成就して行きよる。こう積み上げられて行きよるということ。ね。それは、積み上げられて行きよる時には分からんのです。ね。ですけれども、私共がね、腹を立てると、それがね、それこそ、ガラガラと音を立てて崩れてしまうです。だから、ね。本当に、腹を立てちゃ馬鹿らしいという事になるのです。ね。そこで、今日はね、人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立てなと。ね。だから、腹を立てては馬鹿らしいという事を、皆さん、一つ体験してみるといいですね。えー、そこに、しっかり信心の帯をせんと、その事の稽古も、よう致しません。もう、腹を立てねば、馬鹿らしかごたる言い方をする人がある。ね。そこんところを一つ、おかげ頂いていかねばならんが、今日は、私、乞食じゃと言うとか、盗人じゃと言われてもというようなこと。今度は、こちらがね、こちらが言わんですむ私になると言うこと。ああ、ありゃ、もう、乞食のごたる奴ばのちいうごたる風で、あれは、もう、盗人のごたる奴と言うてです。それは、言うだけじゃない、思う事がいけないと、反対に。こちらが言われるのじゃない。まあ、乞食とか泥棒と言わんでもです。ああー、ずるか。あれはもう、ずるい奴だと、ね。あれはもう、横着な奴だと、というようなね。私は、言い方とか思い方をせんですむ、私にならせて頂く修行をしたいと。
昨日、壮年部会で、色々、もう、昨日は十分、うー、その、もう、一時まであったでしょうか。もう、調子に乗って皆さん、お話をしたりしておりましたが、遅うなりましたが、やっぱり、そういうような問題が、すでにもう、テーマになったんです。秋永先生が、こういう事を言うておられますですね。もう、月並みの言葉ですけれどね。昨日、改めて、ほんなごと、そうだなと思うた。とにかく、お互いにですね、人の良かとこばっかりを見て行こうじゃないかという事でした。これは、もう、よく言うことですよね。良かとこばっかり見ていきゃ、と言う。だから、それこそ、信心の帯をせよと仰るが、しっかり、信心の帯をしてです。しっかり、自分の信心を、確かめてです。ね。いわゆる、人の良いところばかりを見よるとですが、良いところが、ずーっと広がって行く。これは、最近起きたちょっとした問題の事を通してね。秋永先生が体験しておることを、昨日、お話しておられます。ね。家内が見ると、この人もずるい人。この山師のごたる人というふうに、段々見えていくち言う訳たいね。ところが、お前は、そげなふうな見方していたら、あげな良か人をと、こういう事になる。家内は、その、もう、ほんとにですね。そのう、まあ、口が上手で、えー、まー、いうなら、何ち言うですかね。まー、んー、詐欺師なんかに多いタイプの人だと、こう言う訳です。だから、そん、とことんそこを、その、追求してから、ま、その、喧しく、こういうと、こう。そすとですね、その人がね、本当にそういう風になってしまうち言うんです。そういう風に、その人、相手が。ところが、ほんなら、秋永先生が見ておるとですね。今度は、反対に良か方ばっかり、とてもあの人は普通で、普通の人が真似のできんごたる、素晴らしいところをもっとる。あそこもそうじゃないか、ここもそうじゃないかというこつになって来たら、そういう風に秋永先生の前に現れてくる。ね。だからね、人間ち言うものは、そげん、お前のごたるふうな見方せずにですね、もう、とにかく、腹を立てんならんごたるふうな見方ばっかり、お前しよるじゃないかと言う意味のこと。ね。ですから、それを、良いほうへほいほうへと、良いところ、良いところと、言うところを、見て行くと良いことになってくる。あの人は、なかなか素晴らしい。あの人は良い人じゃという事になってくる。私は、その、体験を通してから、聞きよりましたらですね。そん、月並みな言葉が、本当にそうだなと、私は聞かせてもらって思うた。ほんなこと、良かとこだけ見ていかにゃいかんなと。どういう人でもです。良かとこの一とこ、二とこないものはない。で、それを、ほんなら、本気で、良いとこだけを見て行きよるとです。その良いところが、ずーっと広がっていくんだと、いう事をですね話して。その事を、そのお下ります。そらもう、確かにそうですと。ね。例えばね、その、あ、その人の、あれは、乞食のごたる奴と言うて、見よるとですね、もう、自分の前で、確かにいよいよ、この奴ばっかりは、乞食のごたる奴たいと思わなんような事を相手がするという。下作なってくる。自分の前だけ。ね。それは、どういう事かと言うとですね。はあ、あれは乞食のごたる奴と、本当に思うからね。その、生き生きとした思いが、いわゆる、その念です。思いの念というものがね。一つの、ばい菌のようなものになって、それが、培養されてくるということです。ああ、あん奴はもう、乞食のごたる奴と、こう思うでしょう。そりば、本当に思うわけです。あれは、もう、下作な奴だと、乞食のごたる奴だと思うでしょう。その、思う念がね、その念というものが、相手に必ず伝わる。だから、その、念がね、生き生きとして、乞食のごたる念を作ってしまうち言う。だから、相手が、自分の前では、いよいよ乞食のように出てくるという。ね、そすと、自分の周囲には、乞食だらけになってくる訳ですよね。そういう見方をする人は。ああ、もう、汚い汚い、あん奴は汚いという風に、もう、汚い人間ばっかりになってくる、周囲が。だから、それと反対の事を言うたら、どういうこつになるかと言うと、ね。ああ、あの人は、良か人と、本当に思うということですね。そしたら、ね。その、あの人は良い人という念が働きかける。その念がはびこっていく。いわゆる、その、念、良い人という、いうなら、ばい菌のようなものが、こう、培養されてくる。だから、その人が必ず私に対する、いわば、良い人として現れてくるという事をですね。まあ、そういう理論の上に立った、あー、悪口を言うことが、このようにつまらないことだという事をですね、説明しております。もう、お話聞かせて頂いて、もう、一つひとつ、騒動じゃない、それどころじゃないと私は思わせて頂いて、聞かせて貰ったんですよね。ね。そこのところを、教祖の神様は、ね。神の氏子として、人間を全て、そういう風に見られたわけです。ね。人間は、ずべて神の子として見られたわけです。だから、生き神様の周囲は、全部が神様だったという事になるのです。ね。
昨日、ある方がお届けをして、自分の息子のことをお届けしておられる。もう、また、最近ちょっと、こう、ヒスが起こったごたる風で、もう、嫁後がかわいそうち、こう言うわけなんです。ほんとに、もう、あがしこ、分かったごたる風のこつ言うちから、そげなこつのち、私も、ま、聞きましたけれどもです。聞きながら、私が思うことです。けれども、これはね。これは、その、息子がそういう、その、ま、言うならばです、いやあ、あんたげの息子は、そげな息子じゃ無かとこういうことです。あげな素晴らしいところがあるじゃないかと。だから、そら、嫁後が、ほんなら、そげなふうに仕向けとる所は無いかという事。ヒスを起こさなければならないような、あー、ことに仕向けとるような事はないか。私から見りゃ、なるほど、あんたげん嫁後も、可愛い、ここの信者ならば、息子もやはり、可愛い信者。どれがどうとは思われない。ね。うるさいと、それこそ思えど、いる子ばっかりなのだ。ね。これは、息子だけじゃなかばのち、私が言うた。また、私は真実そう思おうです。ね。だから、そんなことも、やはり、それに通ずる。ね。私では、そげなこつの、また起こったのというふうにです。言いますけれども、心ではね、私の心の中にはね。いうなら、そげん見捨てたもんじゃないと、こういう事。ね。そげな段じゃなか、こげな良かとこも有るじゃないかと、こういう事。そういう気分にならせるのは、その周囲であり、雰囲気であるのじゃないかと、こういう事。私共は、ね。なかなか、いわゆる、神の氏子としての、その、見方をさしてもらうということは、なかなか難しいにしましてもです。ね。秋永先生が言われるように、お互い、どうでもその人の、良いところを見て行こうじゃ無いかということ。ね。そこから、神様とまではいただけんでもです。本当に、あんな良い人がという事になってくる。だから、その周囲はみんな良い人の中に、自分があることになる。ね。
今日は皆さん、えー、乞食といわれても、泥棒といわれても、乞食をしとらにゃ良い。人のものを盗らなきゃ、泥棒じゃない。だから腹を立てちゃならんぞと。しっかり信心の帯をせいよと、こういわれる御教えなんですけれども、今日は、私は、それを反対にですね、こちらが言うような事はないかということです。泥棒とは言わんでも、乞食とは言わんでもです。もう、あん奴ばっかりは禄な奴じゃなかというとは、あるのと同じことです。だから、そういう事を言うとです。禄なこっじゃない、ありゃ、碌な奴じゃないというと禄な奴じゃないという念がね、重いです。これは、一念、の念です。ね。念ずるの念です。ね。この念というものは、いわゆる、御祈念と同じ事ですからねえ。一瞬をたつると、相手が死ぬるようなこと、念すら起こすことが出来るんです、人間は。祈り殺すてなこと言うでしょう。大変なことですよ。ですから、そういう良くない念、悪い念を起こすなということ、こちらが。ね。そのためには、その、ここでは、対人関係のことばかりを申しておりますがです。その、相手の人のですね、悪いとこを見ると、悪いところばかりになってくるから、ね。とにかく、良いところが、一とこ、二とこ無いことはない、そこを発見してです、その、良いところから、ずーっと見ていくと、ずーっと、あげな良か人が、人はどうして、あげん悪口を言うじゃろかという事になってくるです。ね。だから、そこんところにですね、今日は、一つ、しっかり信心の帯をせよと仰るところをです。もう、金輪際、人を悪うは見らんぞと。もし、悪う見とったら、信心の帯を緩めておるときだと、一丁、覚えて頂きたいというふうに、今日は皆さんにお話させて頂いておりますですね。馬鹿と言われたり、阿呆と言われて腹が立つ。腹が立つときには、信心の帯がもう、ずんだれとる時。情けない、あれからあげなこつ言われて情けないというときには、確かに、信心の帯がずんだれとる時、と同じように、今度は、相手がです。そういう、禄な奴じゃないというふうに見えたり、いう時にはです。こちらの信心の帯がずんだれておる時と思うてです。ね。もう、一遍、自分を再検討して、相手を、もう一遍見直してみる。ね。ああいう、あの人は良いところがあるところから見ていくと、その人が良い人になってくる。いわゆる、ね。本当のことを言うと、いわゆる、神の氏子とし見えて来る。神の子として見えて来る。あの人も神様のごたる人、あの人も仏様のような人と見えて来るようになったら、人間は、一番幸せなときであり、極楽にあるときだと、私は思うのです。そうでしょうが。神様の人のごたる人やら、仏様のような人の周囲、真ん中にあるわけですから。ね。それにはね、しっかりその、信心の帯をせよということですよ。これは、その、秋永先生の体験、清さんの体験から、あー、今日は、あー、ヒントを得て、ここを頂いたら、58節をいただきましたがです。だから、58節というところを、こちらが見たり、こちらが言うたりするという、これを、まあ、反対の立場のところをですね。やはり、おかげを受けていかなければいけないということ。そすと、どういう事になるでしょうか。もう、あん奴は、禄な奴じゃなかじゃなくてから、本当に、仏様のような人、神様のような人になってくる。そういう念が、生き生きとして働いてくる。そういう念が、いよいよ培養されてくる。ね。そしたら、どういう事になるかというと、自分の周囲は、仏様神様、そういう念がこちらへ帰ってくる。こちらは、何時も、有難い、勿体ないというおかげになってくる。ね。そういう心にね。やはり、おかげが育って行くというようなおかげ。人間の本当の幸せ、本当の幸福というのは、自分の周囲に、悪人もなからなければね。いわゆる、乞食もなからなければ、泥棒もいないという、ね。そういう世界に私は住むことだと思う。良い人ばかりの中に住むことが、私は人間の幸せだと思う。そこんところをね。言うなら、清さんと、秋永先生の例を取って申しましたが、皆さんも、そこんところを、一つ研究してみて下さい。ね。だから、もう少し、ほんなら、教学的に勉強したら、今どきは、そういう、心理的な、あー、勉強のする御書物なんかもございますでしょう。そうして、結論はです。なるほど、腹立てちゃ、馬鹿らしかという事になるでしょうし。なるほど、人のことを悪う言うたり、ね。したり、言うたり、思うたりすることは、こんなに馬鹿らしいことはないという事になるのです。結論が。ね。折角、おかげが育っていきよる。そのおかげがです、それこそ、音を立てて崩れる。それは、貴方の腹立ちの情念というものが崩していくのだと。あーたが、悪口を言う、その思いが、生き生きとした菌の培養がそこに出けて、ね。腹立てなければならないような事を、そこに形成していく。作り上げていくのだと。ね。そのためにはです。私共は、それを言うたり、思うたり、または言われても、それをありがたく受けていけれることのためにね。しっかり、信心の帯をせよという事を最後に、今日は、しっかり、信心の帯をしなきゃいけませんね。でないときには、自分の信心の帯が緩んでおるときと、悟らせてもろうて、自分をいよいよ極めていかなければ、見極めていかなければならんと思うですね。どうぞ。